8月15日「終戦の日」に考える、平和への誓いと非核三原則
今日、8月15日は、日本が無条件降伏を受け入れ、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結してから80年を迎える「終戦の日」です。かつて「終戦記念日」と呼ばれていましたが、「記念」という言葉が慶事を連想させ、抵抗を感じる方が少なくないことから、現在は「終戦の日」という呼称が一般的になりました。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としての8月15日
1963年(昭和38年)以降、毎年日本武道館では全国戦没者追悼式が執り行われ、甲子園球場では夏の全国高校野球大会の試合を中断して1分間の黙祷が行われます。また、1982年(昭和57年)4月13日には、鈴木善幸内閣によって8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定されました。
上皇陛下は、特に忘れてはならない日として、6月23日の沖縄慰霊の日、8月6日の広島原爆の日、8月9日の長崎原爆の日、そしてこの8月15日の終戦の日の4つを挙げられています。ポツダム宣言受託から終戦へ
日本が自ら進んで無条件降伏を選んだわけではありません。連合国側からの勧告を受け、議論の末に無条件降伏が決定されました。
ドイツが降伏した3ヶ月後、ポツダムにおいてアメリカ、イギリス、中華民国の三国首脳の連名で無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発せられました。しかし、日本はこのポツダム宣言を黙殺してしまいます。その結果、広島と長崎に原子爆弾が投下され、ソビエトも宣戦布告して侵攻するなど、戦況は急速に悪化しました。
この事態を受け、ようやく8月10日に昭和天皇を交えた会議(御前会議)が開かれ、昭和天皇の「ご聖断」によってポツダム宣言の受諾が決定されました。しかし、本土決戦を主張する陸軍の説得に時間を要し、最終的に8月15日正午、いわゆる玉音放送によって無条件降伏が国民に知らされ、終戦を迎えたのです。もし御前会議で無条件降伏が決定した直後に手続きが進められていれば、より多くの命が失われずに済んだかもしれません。
「終戦の日」は国によって異なる
8月15日を終戦の日としているのは、日本の他にイギリス、韓国、北朝鮮などがあります。一方、アメリカをはじめ、カナダ、フランス、ロシアなどは9月2日を終戦の日としています。これは、1945年9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ号で、重光葵外相らが降伏文書に正式に調印したことに由来しています。
被爆国日本の国是「非核三原則」
太平洋戦争での敗戦、とりわけ広島と長崎への原爆投下という悲劇は、世界で唯一の被爆国である日本にとって、核兵器に対する特別な思いを抱かせるものとなりました。その思いは「非核三原則」という国是に集約されています。
非核三原則とは、「核兵器を持たず、作らず、そして持ち込ませず」という日本の基本的な方針です。これは1967年(昭和42年)に当時の佐藤栄作総理によって表明され、その後、国会決議によって日本の国是として確立されました。佐藤栄作氏は、この非核三原則の制定などが評価され、1974年にノーベル平和賞を受賞しています。
非核三原則に込められた思い
非核三原則が表明されたのは終戦から22年後のことですが、その根底には第二次世界大戦における日本の悲惨な経験、特に広島と長崎への原子爆弾投下という未曽有の出来事が深く関係しています。
唯一の被爆国としての決意
日本は、世界で唯一核兵器による攻撃を経験した国として、その悲劇を二度と繰り返さないという強い決意を持っています。非核三原則は、核兵器の非人道性を深く認識し、その廃絶を求める国民的悲願の表れと言えるでしょう。
平和国家としての理念
終戦後、日本は日本国憲法第9条で戦争放棄を定め、国際社会において平和国家としての道を歩むことを選択しました。非核三原則は、この平和国家としての理念を具体的に示すものであり、核兵器を持たないことで他国に脅威を与えず、世界の軍縮と平和に貢献するという姿勢を示しています。
未来への責任
終戦の日は、過去の悲劇を忘れないとともに、未来の世代に平和な世界を引き継ぐ責任を再認識する日でもあります。非核三原則は、この責任を果たすための重要な柱の一つとして、核兵器のない世界の実現に向けた日本の揺るぎない決意を象徴しています。
終戦の日に非核三原則について考えることは、単に過去を振り返るだけでなく、核兵器のない世界の実現という未来への希望を強く意識することにつながります。私たち一人ひとりがこの原則の重要性を理解し、平和への願いを新たにする機会とすることが重要です。

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